血のように。
蕾が開きかけている。
綺麗で可愛い、真っ赤な蕾。
されどその花は、毒花だった。
育てるべきか、摘み取るべきか、憂いを滲ませ悩んでいる。
小さな小さなその蕾に、紛う事無き命を感じるからだ。
果たして、毒を吸って死んでしまうことになっても、私は健気な息吹を愛でたくなったのだろうか。
この手の平で包み込んで、冬の寒さから守ってやりたい……
そんな淡い衝動を抱えながら、今も私は、自分の死とそれを天秤にかけている。
早くしなければ、蕾はあっという間に枯れてしまうのに。
科学的ではない=嘘、の論法。
今日、何とはなしに本屋で文庫本コーナーをうろついていると、茂木健一郎著の『脳と仮想』という本が目に飛び込んできた。実は脳好きである私は、買うつもりだった小説と比べて逡巡し、結局その本を購入した。
まだ冒頭しか読めていないが、そこには「クオリア(感覚質)」という概念について書かれていた。曰く、「数量化できない微妙な質感」というものらしい。
このクオリアについて、一際惹きつけられた部分があった。
「赤い色の感覚。水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。」
成る程。素直に美しい概念であると感じた。クオリアについて理解するには、これを読むだけで十分である。
しかし、クオリアという概念を、科学は永らく研究対象としてこなかったらしい。研究したくとも出来なかった、と著者は述べている。方法論が役に立たなかったのだそうだ。
科学的である、と断じる条件が、確か3つ程あった。
他の2つは忘れてしまったが、誰がやっても、何度繰り返しても同じ条件になる、というのがその1つだった気がする。
ここで私は、大学1年生の時に受講していた哲学の授業を思い出した。大学4年間を通して、あの授業ほど私の中に不快感を植えつけ、くすぶらせ続けている授業はない。
全体を通しては、とても興味深くのめり込むことの出来た授業だった。ただ、あの一件だけが未だに心に引っかかりを作っている。時々無性に、貴方は間違っている、と、本人を前にして声高に叫びたい衝動に駆られることがある。
当時、世間を賑わせていた「水の結晶」についての研究があった。
概要はこうである。水に、綺麗な言葉や褒め言葉といった前向きな言葉を投げかけると、水の結晶は美しくなり、汚い言葉や罵り言葉といった後ろ向きな言葉を投げかけると、結晶は見るも無惨に崩れ去ってしまうというのだ。水の鮮度にも、明らかな差が生じたという。
これは、ある意味で真理である。水を人に置き換えれば、誰かを教育する立場である者ならば無視できまい。
大きな話題を巻き起こし、教育の場でも理科の授業などで実践されていたこの研究を、あの講師は「嘘である。」と一言で断じてしまったのだ。
私がショックを受けたのは、その若い講師が何度も熱っぽく、「あの研究は『嘘』だからな。信じたらいけないぞ。これから先生になる君たちは、子どもに嘘を教えないようにな。」と繰り返したこと。挙句、教室にいた殆どの学生が、それをすっかり信じてしまったことであった。
理由は、「科学的ではない」から。誰がやっても、何度繰り返しても、結果が同じにならなければならないという科学の条件に、この研究が当てはまらなかったらしいのだ。
私は憤慨せざるを得なかった。そんなものは科学に心酔する者の傲慢である。また、科学に対する間違った解釈に他ならない。
「科学的ではない。」とするならば、確かにそうかもしれない。現に、水の結晶を研究した研究者も、著書の中でそれを認めている。しかしながら、「嘘だ。」と断じる根拠には成り得ないのだ。
科学的ではないというのは、真実ではないということと、決してイコールではない。何故ならば、科学的であると断じる3つの条件は、所詮人が定めたものでしかないからだ。
冒頭で述べた、クオリアという概念がある。この概念は、永らく科学の研究対象にならなかった。脳という物質に何故、心という不確定なものが宿るのかという疑問は、おおよそ科学的な方法論では導き出せなかったからだ。
人の心ほど、結果が同じにならないものはない。誰がやっても、何度繰り返しても、異なる結果が生じてしまう。
だからといって、一体どこの誰が、心や感情を「嘘」だと言えるだろうか。無いものとして扱えるだろうか。
水の研究に関しても、同じことがいえるだろう。あの若い講師に私が抱いた憤慨はの答えは、これだったのだ。
あの頃に立ち戻って、彼を論破してやりたい。その言葉が間違っているという、明確な根拠がここにある。
最後に弁明しておくと、私は科学を愛している。
また、科学でないものを愛している。
科学と科学でないものの再婚を切に願っている内の、芥子粒の如き一人である。
まだ冒頭しか読めていないが、そこには「クオリア(感覚質)」という概念について書かれていた。曰く、「数量化できない微妙な質感」というものらしい。
このクオリアについて、一際惹きつけられた部分があった。
「赤い色の感覚。水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。」
成る程。素直に美しい概念であると感じた。クオリアについて理解するには、これを読むだけで十分である。
しかし、クオリアという概念を、科学は永らく研究対象としてこなかったらしい。研究したくとも出来なかった、と著者は述べている。方法論が役に立たなかったのだそうだ。
科学的である、と断じる条件が、確か3つ程あった。
他の2つは忘れてしまったが、誰がやっても、何度繰り返しても同じ条件になる、というのがその1つだった気がする。
ここで私は、大学1年生の時に受講していた哲学の授業を思い出した。大学4年間を通して、あの授業ほど私の中に不快感を植えつけ、くすぶらせ続けている授業はない。
全体を通しては、とても興味深くのめり込むことの出来た授業だった。ただ、あの一件だけが未だに心に引っかかりを作っている。時々無性に、貴方は間違っている、と、本人を前にして声高に叫びたい衝動に駆られることがある。
当時、世間を賑わせていた「水の結晶」についての研究があった。
概要はこうである。水に、綺麗な言葉や褒め言葉といった前向きな言葉を投げかけると、水の結晶は美しくなり、汚い言葉や罵り言葉といった後ろ向きな言葉を投げかけると、結晶は見るも無惨に崩れ去ってしまうというのだ。水の鮮度にも、明らかな差が生じたという。
これは、ある意味で真理である。水を人に置き換えれば、誰かを教育する立場である者ならば無視できまい。
大きな話題を巻き起こし、教育の場でも理科の授業などで実践されていたこの研究を、あの講師は「嘘である。」と一言で断じてしまったのだ。
私がショックを受けたのは、その若い講師が何度も熱っぽく、「あの研究は『嘘』だからな。信じたらいけないぞ。これから先生になる君たちは、子どもに嘘を教えないようにな。」と繰り返したこと。挙句、教室にいた殆どの学生が、それをすっかり信じてしまったことであった。
理由は、「科学的ではない」から。誰がやっても、何度繰り返しても、結果が同じにならなければならないという科学の条件に、この研究が当てはまらなかったらしいのだ。
私は憤慨せざるを得なかった。そんなものは科学に心酔する者の傲慢である。また、科学に対する間違った解釈に他ならない。
「科学的ではない。」とするならば、確かにそうかもしれない。現に、水の結晶を研究した研究者も、著書の中でそれを認めている。しかしながら、「嘘だ。」と断じる根拠には成り得ないのだ。
科学的ではないというのは、真実ではないということと、決してイコールではない。何故ならば、科学的であると断じる3つの条件は、所詮人が定めたものでしかないからだ。
冒頭で述べた、クオリアという概念がある。この概念は、永らく科学の研究対象にならなかった。脳という物質に何故、心という不確定なものが宿るのかという疑問は、おおよそ科学的な方法論では導き出せなかったからだ。
人の心ほど、結果が同じにならないものはない。誰がやっても、何度繰り返しても、異なる結果が生じてしまう。
だからといって、一体どこの誰が、心や感情を「嘘」だと言えるだろうか。無いものとして扱えるだろうか。
水の研究に関しても、同じことがいえるだろう。あの若い講師に私が抱いた憤慨はの答えは、これだったのだ。
あの頃に立ち戻って、彼を論破してやりたい。その言葉が間違っているという、明確な根拠がここにある。
最後に弁明しておくと、私は科学を愛している。
また、科学でないものを愛している。
科学と科学でないものの再婚を切に願っている内の、芥子粒の如き一人である。
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