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第七章 史実の裏の悪魔

第七章 史実の裏の悪魔
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 ある美しい人が、言った。
 
 ──優しさなんていうものはね、人それぞれなのよ。
 悲しみ方だって一緒。泣いているからといって、涙を流していない人より悲しみが深いかと訊かれれば……一概に、そうとは言えないわよね。
 目先のことに惑わされては駄目。アナタは気持ちを汲んであげられる人になりなさい。
 人を信じなさい。
 裏切られたって良いじゃない。信じたアナタは宝物よ。
 人の心に絶対なんてない。惑うことばかり。
 でも、誰かを信じたアナタだけは、間違いなく本物。
 他人を怖がっては駄目よ。出会いを放棄しては駄目よ。
 誰かを恨んだとしても、恨み続けては駄目よ。
 許してあげてね。自分のことも。
 そうしたらアナタはきっと、愛する悦びを知るわ。
 誰からも愛される人になるわ。
 この世界が、愛しくて堪らなくなるわ──
 
 そう、ころころと笑いながら。
 日溜りのように美しい人は、言った。





「……ん……、」
 どこか心地よささえ感じる微睡みから、少年は目を醒ました。
 見慣れた天井が視界に飛び込んでくる。どうやら、二人が借りているウェルドの宿部屋のようだ。
 首を軽く起こしただけで走る痛みに、頭を打ったらしいことを悟る。回る視界を振り払うために首を振った。片膝を立てて体勢を変える。障気と経験したことの無い空間転移の所為だろう体の怠さとは裏腹に、寝覚めのよい眠りだった。
 夢の人物の、人柄のなせることだろうか。
 懐かしい夢だ。同時に、夢でしかないことが遣り切れなかった。
 しばらくそのまま俯いていると、隣からうめき声が聞こえてきた。
「ぅ……。な、にがなんだか……」
 胡乱げな表情を浮かべて、ジェントゥルが面(おもて)を上げる。
 少年は慌てて彼に手を伸ばした。
「セル、大丈夫?! どうして、あんなところに……っ」
「ああ、そうだ」
 少年と同じく体を怠そうに反転させ仰向けになると、ジェントゥルは拳をなんと、ルゥの頭頂部目掛けて振り下ろした。
 視界が一瞬白く染まる。思いのほか強い衝撃を受けて、ルゥは首をふらつかせた。
 重力を利用したその拳骨はなかなか強烈なものだった。視界に色と輪郭が戻ってくると、次は痛みと星がじわりとやってくる。
 殴られた部分を両手で押さえてうずくまる。少年の方がなにがなんだか分からなかった。
「い、った……ッ、何すんのさ……っ」
「いきなり居なくなったお前が悪いんだろ。皆に心配かけて、いい加減にしろ」
 殴った拳をそのままかざしてジェントゥルは静かに言う。
 抑揚の無い淡々とした声色が怒張を強調していて、ルゥは柄にもなく震え上がった。
(この人だけはホント怒らせると怖いっ)
「し、仕方なかったんだよ。窓から外を見てたらとある人が現金袋を盗み出してて。そのまま見てみぬ振りするわけにもいかないだろ、だから……」
 それにその時はもうすでに、傷は粗方塞がっていた。だからそんなに、騒ぎ立てる程のことでもなかったのだ。
 だがそれを聞いたジェントゥルは、また無言で拳を振り下ろそうとする。ルゥは咄嗟に眼を硬く閉じた。
 だが、予想に反して衝撃はやってこない。
 不思議に思って薄っすらと瞼を開けると、ジェントゥルが少年を真っ直ぐに見ていた。
 その瞳には、静かな炎が宿っている。
「俺、前に一度言ったよな。お前はもっと、自分の『価値』というものを自覚しろと。王族云々じゃない。お前がどれ程の人に想われているのか、もっとちゃんと慮(おもんばか)ってみろよ。色んな人がお前を心配してた。涙まで流した人もいた。俺だって町中捜して走り回ったさ。大したことじゃないなんて言葉が、そんな人達をどれだけ傷付けるのか考えてみろ。みんなお前に真剣なんだぞ」
 珍しく辛辣な口調で自分を責めるジェントゥルに、ルゥは戸惑う。だが何よりも心を揺さぶられたのは、その言葉だった。
「……『価値』? 王族である以外に、僕になんの価値があるっていうんだよ」
「お前っ」
「だってッ! 僕の所為で母さんは死んだ! 皆だって僕をっ、」
 ──あれは最早、人の子ではないのう。
 脳裏に甦る女の声が、それを裏付けているではないか。
 自分には、人並みの価値など無いと。
「……。ルゥ」
 名を呼ばれて、少年は肩を震わせる。その声が決して同情的ではなく、更なる怒りを含んでいたからだ。
「お前は、自らに降り掛かった不幸しか見えていないんだな。与えられた幸せや喜びが、もっと沢山あったはずだろう」
「……そんなものは」
「なら。この布をくれた給仕の女性はどうなんだ」
 ジェントゥルの手から少年へと荒々しく投げ渡される。深い藍染めの、大手の布。城内で抜け道を利用する時に身を隠せるようにと、サリアという女性が少年にくれたものだった。
「お前を捜している近衛隊の隊長さんも、お前の大事な人なんじゃないのか。彼らから与えられた喜びが皆無だと言うのか。甘えてんなよ。勢いに飲まれず、もっと周りに眼を向けてみろ。そうしたら気付くはずだ。自分が、これまでどれほどの人達の気持ちを無下にしてきたのかを」
 少年は言葉を失くす。膝に被さる藍色を見詰めたまま、呆然と生気もなく項垂れる。ジェントゥルはしばし、厳しい眼差しでそんなルゥの姿を見据えていた。
 だが不意に息を吐き出すと、一変して、憐憫の表情でもって少年を見た。
 それは、いつもの彼であった。
「ルゥ……もっと自分に自信を持ってくれ。お前はいい子だ。みんなお前が好きだよ。なのに自分で自分の価値を否定し続ける様は、見てて痛々しいよ」
 手を伸ばし、少年の頬を撫でる。その感覚に、ルゥの瞳に色が戻り始める。
「なぁルゥ。いつまで城に縛られてるつもりだ。お前はもうちゃんとここにいて、俺とだってこうして信頼関係を築けてるじゃないか。みんな、そのままのお前と友達になったんだよ。お前の居場所を、お前は自分で作ったんだ。それを素直に誇ればいいじゃないか」
「……セル」
 ルゥが泣きそうな眼で、尋ねるように彼を見る。
 確信を持ったしっかりとした微笑を、ジェントゥルは返した。
「ああ。例え正体を知ったところで、俺たちにとってお前は単なる世話の焼ける子どもだよ」
 ジェントゥルを見詰めたまま、ルゥの瞳から涙が滴り落ちてゆく。何度も何度も確認するかのように彼から視線を外さない少年に向かって、ジェントゥルは微笑んだまま、琥珀色の瞳から問われる度にしっかりと頷いた。
 そんなジェントゥルのお陰で、ルゥはようやく彼から視線を離した。
「……ごめん。ごめん、なさ」
 膝の上で拳を握り締める。左腕の袖で涙を拭うが、嗚咽は止まない。
 その幼い体を抱き寄せて、ジェントゥルは背中を叩いて宥める。
「分かればいいさ。女将さんとウェルドさん、心配してたぞ」
「うん……うん、……っく」
 嗚咽に震える体を抱いて、ジェントゥルは笑みを零した。
 そのまま暫くして、彼は周囲を眺め遣る。
「しかし、どうなってるんだろうなこれは。俺たちはさっきまで森にいたはずなのに」
 ようやく落ち着いてきた少年は、不思議そうに室内を見回すジェントゥルにどう説明しようかと考えあぐねた。涙を拭うと、赤く腫れた眼を戸惑いがちに揺らめかす。
 不可抗力とはいえ、彼を巻き込んでしまったことには違いない。
(こうなると誤魔化すことには意味がない。どうしたら)
 しばし思案に暮れて、少年は打ち明けることを決意した。
 にわかには信じ難い話だが、事実は事実。知らぬより、知っておいた方が彼の身を守るためにもなるだろう。
 少年が口を開こうとした、その時だった。
 勢いよく背後を振り返ったジェントゥルの腕が、少年の腰を抱え込んだ。小脇に抱えて跳び退くと同時に、その場から床を割って、黒い槍が飛び出した。
「な!」
「何だよあれはっ」
 ごちるジェントゥルだったが、狭い室内で跳躍したために壁に激突しそうになる。咄嗟に彼は脚を曲げ体勢を傾けると、見事に壁に着地した。
 だが。
「ちっ、しつこいな」
 床に足を下ろすと、なおも槍が次々と突き出して迫ってくる。それをまるでステップでも踏むようにかわすと、ジェントゥルは少年を抱えたまま、窓から身を投げた。向かいの屋根に飛び移り、ルゥを石瓦に下ろす。
 呆気にとられて、ルゥはジェントゥルの横顔を穴の開くほど仰ぎ見る。
(セルの、今の動きは)
 だがそんな視線を受け流し、彼は無言で、針山になってしまった部屋を見詰めていた。
(あの状態を見る限り、階下が無事だとは考えづらいな)
 にも関わらず、丁度食堂から出てきた客が屋根の二人に気付くと、暢気な調子で声を掛けてきた。
「……一体どうなってるんだ」
「驚きました。まさか人間にアレをかわされるとは」
 水に揺らされているような曖昧な男の声を、二人の耳が捉える。それと同時に、虚空を揺らめかし、中空に人影が現れた。
 引き締まった体躯に墨色の正装を纏い、灰色の短髪を後ろに流した男。目頭に通る細い皺が年輪を感じさせる。そして何より、ルゥの鼻をかすめるこの臭いは、ルゥがかつて宿で嗅いだのと同じものだ。
(間違いない)
 少年に緊張が走る。
 だが、男がそれ以上手を出してくる様子はなかった。二人に向けるその表情は、心底不可思議で、意味不明だと語っている。初めて眼にする生き物を観察するかのように、男の枯草色の瞳が、ジェントゥルを捕らえていた。
 突如として空に現れた人影に驚いた先ほどの客が、慌てて食堂内に引き返す。ぞろぞろと客達が騒ぎながら外に出てきた。
 一方で、怪訝な男の視線を受けてもジェントゥルは眼を逸らない。それどころか勝気に言い放つ。
「これはまた。お宅はどちらの大道芸人だ? 空に浮くなんて、ただの仕掛けじゃないんだろうな」
 それを聞いた男が、ようやく口端を嫌味にもたげて笑う。
「矮小な人間の、眉唾物と一緒にしないでいただきたい。それよりも私には貴方のほうが不思議でなりませんよ」
 あの動きは一体なんだと。鋭い光を湛えた瞳がそう尋ねる。
「普通の人間の反応ではありませんでしたね。どこぞで訓練でも受けたか、あるいは戦場に身を置いたことのある者の動きです。その王子を護るナイトとでもいったところでしょうか? まぁどちらにせよ」
 白い手袋を嵌めた指を、口元へ持ってゆく。
「その身に染み付いた血の臭いから推察するに、相当数の人間を斬り殺してきたのでしょうがね」
 「道理で殺気に敏感な訳だ。」そう喉を震わせてくつくつと笑う男の言葉に、ルゥは頭を鈍器で殴られでもしたような衝撃を受けた。
(セルが……人を殺めた? それも、大量に?)
 あんな動きを、身に付けるほど。凄惨な場に身を置いて。
 思えば少年は、彼の詳しい過去を何一つとして知らなかった。故郷がないと、ただそれだけを打ち明けられただけ。男の発言に対して何も言わないジェントゥルの背中が、全く知らない誰かのように思える。
 そんな少年の様子に気付いた男が、笑みの失せた顔で得心のいったように鼻を鳴らす。
「ふむ。どうやら王子付きの護衛というわけでもないようですね。私の勘違いだったようだ。また小言を言われてしまいますねぇ、なんとも愉快そうに」
 少々うんざりして眉を下げる男が、再びジェントゥルを見る。
「そうと分かれば答えはひとつでしょう。私はね、吟遊詩人。その静かな殺意の宿る眼差しと、先ほどの貴方の動きを知っていますよ。正確には、貴方と似通った人間を一人知っているというだけですが。彼から噂を聞きました。貴方はかつて、仲間から『英雄』と呼ばれた男だ。違いますか?」
 ルゥは驚いて、ジェントゥルを見遣る。だがその背中は相変わらず知らぬ人間のもののようで、少年に何も語ろうとはしない。
 だがその口から男へ放たれた声色は、いつもと同じ、からかい混じりの穏やかなものだった。
「あんたばっかり俺のこと知ってるのはズルイな。そういうあんたは一体何者なんだ? 空に浮かぶ『大道芸人』さん」
 男が酷薄な笑みを張り付かせる。対照的に笑わぬ枯草色の双眸が、ジェントゥルを射た。
「どうやら、死にたいご様子だ」
 少年から血の気が失せる。
「いけない、セルは逃げてッ、ただの人間では奴には敵わない!」
 その言葉で、ジェントゥルが振り返る。
 浮かべていた表情は、少年の胸を跳ねさせた。
「大丈夫だ」
 腰を屈めて、ささくれ立った手がルゥの手を包む。穏やかな声も、眼差しも。手のぬくもりも。どれも少年がよく知っているものだ。
 雨は、いつの間にか上がっている。自分を見詰め、呆気に取られている少年に、彼は、

「生憎俺は、『ただの』人間じゃないんだ」
 空に風でも吹きそうな晴れ渡った笑顔で、不敵に微笑んだ。


 2007.09.07 都樹優戸


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