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第七章 史実の裏の悪魔

第七章 史実の裏の悪魔
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 森の外れにある洞窟。地面が突然泥のように歪んで、ルゥと知らない男が飲み込まれてしまった。ゴツゴツとした地面は、相変わらず痛いほど硬く、人が沈むような要素はなにひとつとしてない。先ほどの形跡など微塵も残っていないその場所に四つん這いになり、モーダルは愕然としていた。
 すると背後から、洞窟全体を震わすような太い声が語りかけてきた。人間のものではない、それ。
《魔族だな。まさかこんなところにまで魔力の触手を伸ばすとは……。ここ最近奴等の動きが活発化してきているようだ。目的は、火を見るより明らか》
「は。『魔族』、だって?」
 思わず間抜けな声が出てしまった。
 当然だ。空想に近いものが動きを見せただのと言われたところで、実感など沸くわけもない。にわかには信じがたかった。だが、現実にこうして魔族と争ったとされる竜の一族が目の前に存在し、少年は地面に飲み込まれて消えた。
 信じろと言われれば、無理矢理にでも信じるしかない。
「そ、それで、何でルゥが攫われたんだよ。無事なのか?」
 戸惑いながらもそう訊ねる。
《空間転移自体に大した害は無い。奴等の気位の高さから推測するに、不意打ちでそのまま空間の狭間に閉じ込めるなどと、姑息な手も使うまい。今のところは無事だろう》
 その問いに、ユージーンは流暢に答えた。
 ひとまずほっと息をつく。あのまま死んでしまったということはない、というのが、どれほど精神的に救われるか。
 しかし不思議な気分だ。こうやって竜と会話しているなど。
《だが、このままだといずれにしろ危険だ。奴等の狙いは、まず間違いなく、『附与(ふよ)の羅杖』の奪還。そして、それに先駆けての竜族の殲滅に他ならない》
「……!」
 先ほどの軽い安心感など、微塵も残らず吹き飛ばされた。背筋を冷たい一筋が滑り落ちていく。「竜族の殲滅」。そんなことを画策する存在がいる、それだけでエラメドルの住人である自分にとっては、天地が逆転するほどの恐怖となる。耳馴染みのない単語、そんなものに思考を回す余裕もない。
 ユージーンはモーダルに、もたげた自分の首の下に隠れるように言った。
《私も行く。どうやら、見過ごすことも出来ぬようだ》
「え。あんた、が?」
 早くしろと急かされて、慌ててモーダルはユージーンの大きな首の影に潜り込む。
《……やれやれ。此処から動くのも何百年ぶりだろう》
 少し億劫そうに呟くと、重厚な年輪を重ねた白竜は、洞窟の天井をゆっくりと突き破った。洞窟の奥深くまで、すべての岩肌がひび割れ、地響きを立てて崩れていく。現れた巨躯をモーダルは、頭を庇いながらしっかりと眼に焼き付けた。
 山が動いているようだった。





「さて、と……。ルゥ。取り敢えず、あの男が何者なのかを説明してくれると有り難いんだがなぁ」
 呆気に取られる少年を相手にして、ジェントゥルはなんとも情けない口調で嘆息した。
 それはそうだろう。いくら強がっていても、突然人が宙に浮かんで現れれば参りもする。
 少年はジェントゥルの背後へ視線を滑らせる。男は不機嫌を顕わにしていたが、説明する時間くらいくれてやると言わんばかりに、腕を高慢に組んだまま何も仕掛けてこようとはしない。それを確認してから、ルゥはジェントゥルの双眸を見据えた。「よく、聞いて欲しい。」と、前置きをして。
「実は、これは僕に関わることなんだ。正確には、『竜族』と──奴ら、『魔族』との」
 最後の単語を耳にしたと同時に、ジェントゥルは、「馬鹿な……」と呟いた。その瞳は驚きに見開かれている。到底有り得ないことだったからだ。
 魔族など、有り得ない。
「戸惑うのは分かるけど、事実なんだ。『魔族』と呼ばれるものは実在し、何千年も前から僕ら……いや、『竜の血』と争い続けている。僕らと奴らはいわば、宿敵みたいなものだ」
 始まりの理由は、誰も知らない。遥か昔に忘れ去られ、ただひたすらに互いを宿敵と見なし、気の遠くなる歳月を争ってきた。だが、いつの時代か行われた激しい戦の最中。とある一匹の竜が、魔族の力の根幹となる「杖」を奪い去ったのだ。それからというもの、『魔族』達は成りを潜め、数千年経った今日では伝説上の生き物として、本来の姿とは掛け離れた、死神とも悪魔とも呼ばれるものになった。
「その魔族から奪った『杖』を、竜達は一体何処に隠したか。それが、僕ら『竜族』の始まり。それを奪った竜の名は『天空竜』。この国を治める竜族の、祖となる竜だ」
 神に祝福された地、エラメドル。国そのものは「竜族」生誕以前から存在しており、国を護る結界も創世暦時代のものだ。だがこの国の創世暦時代の書物は、今や総て失われてしまっている。
 イルストローアと呼ばれるエラメドル王家の姫君が、人身に転じた『天空竜』と交わったことで、新たな王家が生まれた。古い王家の血は絶え、その歴史も抹消された。それでも今日、神々の怒りを買わずに国が滅びず泰平が保たれているのは、竜達が不用意に王家に干渉してこなかったことが大きい。それ故に新たな王家も、慣習を引き継いで創世暦以来の神々を祀り上げることが出来たのだ。
 しかし、新たな王家の存在意義は唯一つ。すべては『魔族』の至高の宝のため。この国も、王家も、それを永代護るために在る。身勝手な話だと、少年は過去を厭う。
「そういう背景が、歴史の裏にあるんだよ。だから今回の件だ。力を奪われた魔族達は、『杖』を取り戻す算段を着々と進めていたらしい」
 だから今回のことも、魔族達が仕組んだこと。少年に直接接触してきたことが何よりの証だ。巻き込んでしまったことをジェントゥルに告げる。
「逃げてもいい。とても普通の人間の手に負えることじゃない。僕はこの血を認めたわけじゃないけど、僕がなんとかするしかない。でなければ──」

 この国は、この期を境に滅ぶ。

「セル、どうする?」
 何も言わない眼前の男に問いかける。茫然自失としているのだろうか。無理もないが、垂れた日除けが彼の顔を隠してしまっているために、少年にはその表情は推し量れない。もう一度名前を呼ぼうと、息を吸った時だった。
 ジェントゥルの口が、笑った。
「十歳の子どもが戦うってのに、大の大人が逃げるわけにいかないよな」
「……!」
 心臓を鷲掴みにされたかと思った。
「なに、言ってるんだよ。相手が何者かさっき話しただろ? 普通の人間が遣り合って勝てる相手じゃないんだ、間違いなく、殺される。いいから逃げてよっ」
 必死で彼の腕を掴んだ。考えたくもない未来がいくつも脳裏を過ぎっていく。希望などないように思えた。
 だが。
「俺もさっき言っただろ? 生憎と俺は、普通の人間じゃない」
 笑顔と共に、少年は豪快に頭を撫でられる。ジェントゥルは膝を伸ばして立ち上がると、颯爽と背後を振り返った。
「と、いうわけだ。来いよ。先ずは俺が相手になってやろうじゃないか」
 なんとも快活に、宙に浮く男にそう言い放つ。
 そんな様子を、少年は呆然と見ていた。彼は、一体なにを言っているのか。魔族相手に、一介の人間が戦う?
(確かにさっきの動きは、只者でなかったことは認める。だからといって──)
「……無理だ、僕は認めない。セルは相手がどれほど恐ろしいものか分かってないんだ!」
 少年は語調を強めた。相手を舐めてかかって、勝てる相手ではない。
 呆れ半分といった調子で、空に浮かんだ魔族も同意する。
「言えた義理ではありませんが、私もそう思います。貴方がいくら常人離れした運動能力を持っていたとしても、空間を渡る我らの前では赤子も同然。そこの、」
 腕を組んだまま、優雅とも呼べる所作で少年を指差す。
「忌まわしき『竜族』の若君でなければ、相手にはならないかと」
 嘲りを含んだ笑みで、纏わりつくように言った。
 そんな魔族の態度に少年が鼻白む。
「……いいだろう。直々のご指名なら相手になってやる」
 しかし臨戦態勢を取ろうとする少年を、ジェントゥルが腕で遮った。
「、セルっ!」
 悲鳴にも近い声で少年は責める。だがその吟遊詩人は、一向に快活な戦意を崩さない。
「まあ任せろ。いくらお前が強くても、こっちにだって面子ってもんがある。それにだ」
 急に、その顔が引き結ばれる。落とすように呟いた。
「お前には。やるべきことが他にあるだろう」
 どきりとした。
「僕の、やるべきこと」
「そうだ。こいつの目的がその魔族の宝の奪還というのなら、何千年も満を持していたそんな大それた計画を、たった一人で実行しようとするか? だったら俺達のやるべきことは一つだろう。賢いお前なら……分かるよな」
 ジェントゥルが肩越しにルゥを見る。その真に迫った声と瞳に、少年は抗えなくなった。
「お前にとって、酷なことを言ってるってのは承知してる。けど、確かにお前と俺だけじゃ力不足だ。お前は今一番何をしたい。さっき言ってたよな、自分がなんとかすると。この国を、町の皆を守りたいんだろう」
 互いにしばし、視線を交錯させる。
 だがやがて、少年は頷いていた。
(大丈夫だ……この人は、きっと強い)
 すべてに於いて、きっと。
 きゅっと顔を引き締めた。胸に信頼の火が灯る。
 不機嫌を隠そうともせず、魔族は二人を嘲った。折角の勝負に水を差されたことが余程気に食わないようだ。眉間に皺を寄せ、馬鹿にするように手をひらひらと振る。
「血迷ったことを。貴方では話になりませんよ」
「そいつはどうかな。『やってみないと分からない』って格言が、俺達人間には有ってね」
 またジェントゥルに快活な笑みが戻る。一方で、馬の尻を叩くように言った。
「行けっ」
 その言葉に弾かれ、少年は屋根から後方へ飛び降りた。身を翻し路地に着地すると、そのまま町を北へと駆ける。
「──させるかっ」
 鞭をしならせるように魔族が腕を振った。切れた空間から毒々しい色の蛇が無数に現れ、槍のように少年へと襲い掛かろうとする。
 それを、流れるように滑り込んだジェントゥルが叩き落とした。尚も飛び掛っていく蛇の動きに合わせ、まるで舞でも舞うかのように袖を振り、屋根を踏み締め、すべてを叩き伏せる。ボロボロと零れ落ちる蛇の屍骸は、黒い霧になって風化した。
 一瞬の動き。
 忌々しげにザナイルは舌打した。道を見遣ると、既に少年の姿はない。
「──逃げられましたか。短剣など何処に隠していたんです?」
「こいつは護身用さ。いつも腰紐に差してある」
 「もっと切れ味の鋭い長剣なら、今より遥かに強いぜ。」そう自信たっぷりに言い放つ男の認識を、魔族は少し改めざるを得なかった。額を手で覆い嘆息する。
「はぁ、参りましたね……。仕方ありません。折角ですから、私の名をお教えしましょう。私の名はザナイル。以後お見知り置きを」
 優雅に、胸に手を当て頭を垂れる。まさに紳士のそれだった。
 今度は、ジェントゥルが相手の認識を改めさせられる番だった。ザナイルと名乗った眼前の敵は、どうやら相当理性的な相手らしい。下手なプライドと驕りで、隙を作るようなヘマはしてくれそうもない。
 わざとらしく感嘆してみせた。
「へぇ。もっと気位が高くて、相手を侮ってかかる奴だと思ってたが、なかなかどうして立派なもんだな」
「侮っていますよ、ある程度はね。お褒めに預かり光栄ですが、人間の中では強い個体だと認識しただけです。証拠に、貴方の名には一向に興味が有りません」
 こんな相手にかかずらっている場合ではないのにと、うんざりとした顔に書いてある。
「貴方を無視して空間転移を使うのも手ですが、貴方は貴方でしつこく追ってきそうですからねぇ。それはそれで煩わしいので、後々のことも考慮してここで叩いておくことにします」
「あらら、そうかい。そりゃ残念だったな」
 調子よくそう言ってはみるものの、内心穏やかではない。どちらにせよ、人間が猫に対して抱くようなある種の油断は、もう対峙する相手には無いのだ。
(一対一じゃ……ちと不利かもな)
 ザナイルが、灰色の髪を撫で付ける。顎を上向け、魔族の名に恥じぬ高慢さで枯草色の瞳がジェントゥルに微笑んだ。
「さあ。それでは始めましょうか」
 親指から三本の指を立て、腕を真横にするりと振る。その腕に、突然黒光りする稲妻が不気味に爆ぜながら纏わり付いた。徐々に大きく威圧的に膨らんでゆくそれが、音だけで肌を刺し貫かんばかりに不規則に跳ねる。
 その電圧を肌で感じながら、ジェントゥルの額を冷たい汗が滑り落ちて行った。纏った服がハタハタと風も無いのに落ち着きなく揺れる。
 片や稲妻。片や生身と鉄製の短剣。揺れる長布に時折遮られながら見える、自信を溢れさせたザナイルの残忍で酷薄な笑みが、自分の圧倒的不利を裏付ける。
 ジェントゥルの余裕すら感じさせる快活さは失せ、固く引き結ばれた口元と、光を揺らめかす険しい眼差しが、状況の切迫さを伝えていた。
(……もしかしたら)
 もしかしたら、生きて再びルゥとまみえることは無いかもしれないと。
 ふと、思った。





 モーダルとルゥを見掛けたと報告した壮年の男性が、手招いてウェルドと女将を外へ連れ出す。そこで二人が眼にしたものは、おおよそ日常とはかけ離れた光景だった。
 空に浮かぶ奇妙な男と見知った顔が、琴の糸を張り詰めるように屋根の上で対峙している。女将が小さく悲鳴を上げ、両手で口を覆った。
「セル……っ、どうしてあんな所に」
「あいつ。居なくなったと思ったら一体何に巻き込まれてんだ」
 ウェルドも同時に渋い顔をする。明らかに尋常ではなかった。しばし多くの見物客と一緒に事態を見守る夫妻。だがしばらくして、ある異常に気づいた。
 風に乗ってくる、人の叫びや地響きらしきもの。多くの足音が地面を踏みしめるその音は、脳裏に巻き上がる砂埃を連想させる。
 一体なにが。
 ピリピリと表皮を焦がす焦燥に後押しされ、ウェルドは道の彼方を見遣った。

 想像と等しい砂埃を巻き上げ。
 遠くで、人の悲鳴と野蛮な歓声が響いていた。


 2007.09.09 改訂2008.03.19 都樹優戸



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