第八章 記憶の実像
第八章 記憶の実像
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息咳切って駆けてきたものだから、呼吸を落ち着けるのに少年は一苦労した。肺から口内に、鉄錆の味が広がる。
長い長い坂道は、思いのほか登る者の体力を奪った。体を折って呼吸を調える最中、視線だけを動かし、少年は、眼前にそびえ立つ建物を仰いだ。
それは、純白の城だった。
人が手入れ不可能な外壁。風雨にも晒されているだろうに、汚れや傷、蔦一つ巻き付いていない。岩で築かれたであろうのに、表面はのっぺりとしていて、継ぎ目一つ見当たらない。その汚れなき様相のためか、城全体が薄漠と、光を発しているかのようにさえ見える。
神秘を感じさせる、その佇まい。それは、この国の政務の中心。「至上の宝」の封印場所。そして、少年の生まれ育った家だ。
「……」
雲まで届くかと錯覚させられる程に、悠然とそびえる建物を前にして、少年は何も言えなくなった。ただただ仰ぐことしか出来ない。
いつか戻って来るつもりではいた。そんなに長い間、自由にならないことも少年は承知していた。だが、こんなにも早く、再びこの姿を目にするつもりではなかったのだ。蒼穹を背負った美しい白亜の城は、ともすれば威圧感を発しつつ視界一杯に迫ってきそうで、今はとても恐ろしい。
それでも、戻ってこなければならない事情が、少年にはあった。とある人物の力を、借りるために。
不意に笑い出す脚を、少年が叩いて叱咤した、その時。
「誰だっ」
突然、頬を叩くような声がした。はっと少年が視線をやると、赤い制服を着た年若い青年が、豪奢な造りの正門から伸びる、短い坂を下ってきていた。警戒をあらわにした様子で。
よくよく少年が目を凝らせば、見慣れた姿だ。鍔有りの赤い帽子と軍服。つまり、ただの門兵ではない。少年の身辺を警護していた「近衛」、ガレフ隊の一等兵だ。
未熟な願望を叶えるためと言い、身勝手に脱走した少年を、必死に捜してくれている初老の好々爺。毛先の巻いた谷型の銀髭(ぎんし@口ひげ)と、年齢と共に皺を刻んだ顔立ちは、否が応にも人を慕わせる威厳のようなものを感じさせたものだ。
「ッ、その、御髪(おぐし)は。まさか……っ」
近付いた青年が、この白銀の髪を認めて驚愕する。やはり、少年の特徴を熟知しているようだ。隊への伝令役として、城に残っていたのだろう。少年がほっと胸を撫で下ろす。
内心の焦りを胸を掻くことで懸命に抑え、驚き顔のまま硬直してしまっている青年へと、少年は告げた。
「行方不明の王子を捜す必要は、もうない。急ぎ、町の警護にあたるようにと、あなたの隊へ連絡してくれ。町が騒がしくなっている。それから……」
唾液をひとつ嚥下し、少年は青年をじっと見詰める。瞳には剣呑な色とともに、なにか決意のようなものが宿っていた。
それでようやく我を取り戻したらしい青年は、瞬時に顔を引き締めると、黙して次の言葉を待った。
「取り急ぎ、謁見を請う」
胸を掻く力を更に強めて、よく通る明瞭な声で、少年は告げた。
「エラメドル=ファル=ノーデンス竜王陛下。我が、父に」
「彼の殿下のお言葉ならば、喜んで!」
実に快活な返事とともに、青年は槍を地にうがった。背筋を正し、帽子を胸へとあてがう。
見慣れた赤い制服を纏った、茶髪の年若い隊員は、引き締まった精悍な表情で、この無茶な頼みを承諾した。
◆
天井が、やけに高い。
数日振りに訪れた城内の廊下を進みながら、自然、宿のそれと比べていた。やけに新鮮に感じる。城に居る時は、ほとんど部屋から出してもらえなかったからかもしれない。抜け道を利用して給仕の女性に会いに行く以外は、城内の様子はほとんど知らなかった。
白亜の壁と、アーチを描く高い天井。右には火の燈っていない燭台の列。左にはパルテノンを思わせる柱と、眼下に広がる美しい緑、緑の向こうにはアルフトの町一帯が見渡せる。その上に果てなく広がる透明な青。非常に見晴らしの良い景色なのだ、普段ならば。
今はそれが、うっすらと淀んで見えた。アルフトの町の至る所から、煙が立ち昇っていく。
それらを歯噛みして眺め遣りながら、長い廊下を延々と歩いていく。足音が二つ、慌しく響いた。
前を歩くのは、門前で出会った背中だ。伝令は別の者に頼んだようで、先程の青年自ら、僕に付き添ってくれている。向こうは義務感からかもしれないが、正直、有り難かった。
憎んでも憎み切れない、実の父。怒りは止めどなく沸き起こってくるのに、同時にどうしようもなく怖いのだ。先程その名を口にしただけで、胃に冷や水を流し込まれたかのような感覚がしたのを思い出す。
まだまだ自分など、足元にも及ばない。こんな自分が、のこのこと奴の私室を訪れるなんて、どうかしている。蛇のアギトに獲物が進んで飛び込んでいくのと同じだ。
また捕らわれて、閉じ込められるかもしれない。母の二の舞になるかも。
(それでも)
気持ちを落ち着けようと、息をひとつ吸った。
(それでも。やるべきことが、僕にはある)
誰に言われたからでもない。自分でちゃんとわかっていた。逃げ続ける訳にはいかない。
そうしていると、ふと前方から話し掛けられた。
「しかし、ご無事でなによりでした、殿下。もしや人攫いにでも遭遇されたのではと、私ども一同、気が気ではありませんでしたよ。一体今までどちらにいらっしゃったのですか」
少々棘を含んだ声色だった。だがそれは冷たいものではなく、心底心配したのだということを伝えるものだ。ほとほと自分の周りには、保護者が多い。苦笑が浮かぶ。
「すまない。城下のとある宿で、世話になっていたんだ。彼らは僕の素性を知らずに、好意で匿ってくれていた。どうか罰したりしないでほしい」
あまりこういった物言いは好きではないのだが、相手が軍人では仕方がない。彼らは「近衛」であるから、志も高い。かえって忠誠を欠いたと、首でも吊られたら大変だ。
「そんなことは……。私が決められることではありませんし、隊長のことですから手荒なことはしないでしょう」
「だろうね。彼は好い人だ」
彼の好々爺っぷりを思い出して、つい笑みが零れた。そんな僕の様子を感じ取ったのか、青年が徐(おもむろ)に立ち止まり、振り返った。
どうしたのかと首を傾げて青年を見詰めると、彼は、ふっと穏やかな顔をした。
「変わられましたね、殿下。私が隊長から聞かされていた殿下は、引っ込み思案で臆病な御方でした。このように、私のような見知らぬ者と、臆さず話をなさるような方ではありませんでしたよ」
そんなふうに言われて、正直驚いた。目を丸くする。
「いや、それは……」
言葉に詰まる。
それは、周りの人間が近寄って来なかったからで。僕を、人として見てくれなかったからで。そんな視線や態度を敏感に感じ取っては、恐ろしくなってしまっていた。
ガレフ隊とて例外ではなかったように思う。それが、僕自身が原因だったとでも言うのだろうか。
「変わったのは、君達の方じゃないか? 以前はそれこそ、こんな風に話など出来ないような、壁を感じていたんだが」
僕の至極真っ当な意見に、何故か青年のほうがひどく驚いていた。先ほどの僕よろしく、眼を丸くする。
「そんな、滅相も。私たちはみな殿下をお慕い申し上げておりますし、殿下のただでさえ息苦しい生活に少しでも心休まる空間をと、心を砕いてきたつもりです」
思考が一時停止した。
とても変な光景だろう。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、お互い顔を見合わせて固まってしまっているのだから。
「……そんなこと、初めて聞いたよ」
「それは……大仰に、言うべきことではありませんから」
それでは、自分の感じていたあの恐ろしさは、一体なんだったというのだ。母を失い、父を憎んでいた、その心の闇が見せていた幻だったとでもいうのか。
(まぼ、ろし……?)
「── ッ!」
驚愕に、息を飲んだ。口を押えたまま、よろよろと後退し壁に背を預ける。
その考えに行き着いたとき、かつて感じた恐ろしさとは比べ物にならないほどの寒気が、足元から這い登ってきたのを感じた。雨の降りしきる森の中、洞窟で対峙した、あの時のユージーンの言葉が、幻聴のように耳に甦ってくる。
喉を震わせ、瞬きすら忘れた身体が、酷く重くなった気がした。
目眩がする。
「? 殿下、どうかされましたか」
青年の表情に険が宿る。だが彼の呼びかけに、答えている余裕などなかった。重苦しい不協和音が、脳に響いて心を掻き乱していく。
《──竜の血か……。だがそれも、お前自身だ。そして厳密に言ってしまえば、この世に同じものなど何一つ無い。お前が自分と違うと線を引く者達でさえ、皆同じ人間ではない。育った環境も、感情の触れ幅も、観念も……引く血ですら》
《人と違うだなどと思うな。それは所詮、自分から壁を作り避けているだけダ》
「ウルサイ、黙れッ!」
あまりの恐怖に悲鳴を上げた。これ以上聞きたくなかった。
だが耳穴を塞いでも、ユージーンの声は同じことを延々と繰り返し、僕の耳元を舐めるように囁いてくる。
(黙れ。黙れ。黙ってくれ……!)
立っていられず、床に膝を付けた。青年がなにか喚いているが、響く幻聴と耳鳴りで聞き取れない。頭が割れそうに疼く。
《それは所詮、自分から壁を作り避けているだけダ》
悪魔のようなユージーンの声がまた囁く。それがどんどん僕を追い詰めていった。
知りたくなかった、そんな事実。そんな可能性から、眼を背けていたかった。それなのに声は、自分の身に巣食うあさましさを、まざまざと突き付けてくる。
そう、僕は気付いてしまった。
この身に巣食う、卑怯な甘えに。
──僕はこのままずっと、被害者でいたかったのだ。
誰かを憎んでいないと、気が狂いそうだった。
そうなったのは僕の所為ではない。「あいつ」が、僕の眼の前で母をあんなふうに無残に殺しさえしなければ、こんなにも心が醜い闇で満たされることもなかった。城という場所に恐怖を抱き、他の女性にまで母を求めるような、そんな惨めな思いをしなくて済んだ。
自分は、望んでこうなったのではないと思いたかった。そう信じていたかった。なのに事実が、僕の壊れものの心を打ち壊す。
洪水を防いでいた堤防が、勢いよく決壊したのを感じた。その瞬間、耳に響くユージーンの声が、ふっと穏やかなものに変わる。
緊張から解き放たれ、溺れかけたように息を吐き出して手を付いた。力が入らず、そのまま前のめりに蹲(うずくま)る。腕で頭を抱えた状態で、流れ落ちる汗を拭うこともせずに、荒い呼吸を繰り返した。
声は、今はとても穏やかだ。
何故、気付かなかったのだろう。
ユージーンの声は、こんなにも慈愛で満ちていたのに。
これに似た響きを持つ声を、僕は知っている。傷心に染み入る、陽だまりのようにあたたかだ。これこそが、あのとき洞窟で僕に向けられた、ユージーンの本当の声だったのだと知る。そこには僕を責める色など微塵もない。
これで分かった。どんなに眼を背けようとも、結局、そういうことなのだ。
幻だ。
「……、ハァっ、ハァっ、……はは。バカだな、僕は……」
自分が他人に感じている壁など、所詮思い込みによるものが殆どで。それが、自分の眼を曇らせる。与えられている気持ちにも気付かず、ただ不遇を嘆くばかりになるのだ。愚かなことだった。
一方で、必要な壁もあるだろう。僕が青年の誇りを傷つけないようにと、言葉を選んだのも必要な壁だ。だがそれは、今までずっと自分が憎んできた壁と、まったく同じものだった。
(僕は、「王子」だ……。「王子」なんだっ)
それは、動かしようのない事実で。けれどもそれに相応しい、精一杯の誠意を向けてくれていた人達がいた。
なのに、それ以上の扱いを期待して、もがいて泣き喚いて引き篭もって。
──誰かを、自分勝手に憎んだ。
本当に子どもだ。未熟で考えの足りない子どもだ。情けなくて思わず呻いた。
僕の変調に、青年が必死に声を張り上げていた。僕の肩を抱き、虚ろな僕の眼を見て懸命に呼びかけている。彼の顔色は、僕以上に悪かった。もしこれが、昔から変わらない彼らの心根なのだとしたら、とても、申し訳ないことをしてきたと思った。勿体ないことをしてきたとも。気付かずにいた時間を取り戻したい。
不意に、彼の動きが止まったように見えた。先ほどまでの必死さは失せ、顔に戸惑いの色が滲んでいる。
「で、殿下……」
なんだろう。幾分か落ち着いてきた呼吸を繰り返し、視線をかち合わせる。彼は僕の顔を凝視していた。
「殿下……お涙が…………」
(涙?)
そっと目尻に触れてみると、ぴとりと指に吸い付く感触がした。すっと横にずらしてもその感触は変わらない。視線を下にやれば、流れ落ちる涙で床がしとどに濡れていた。
(ああ……。本当だ)
心中そう呟く。先ほどの比喩ではないが、まさに堤防が決壊したかのように、それは目尻から延々と流れ続けていた。
なんのために流れている涙なのか、自分の身体のことなのに分からない。さては自分の愚かしさを呪う涙か。はたまた自分勝手に敵視してきた人達への懺悔の涙か。だが、どちらも違う気がした。
そういえば、先程までとても後悔していたはずなのに、今はなぜか胸がじわりと温かい。
(これは……、あれだ)
嬉しがって、いる。震えるような悦びで、胸がいっぱいになっていた。
戸惑ったが、そう呼ぶ以外に、この感情を説明できる言葉はない。どうしたことだろう。過去から今に繋がる彼らの厚意に、素直に感謝出来る自分が、ここにいる。
それはもう、昔の後ろ向きな自分ではなかった。
「……そうか。これも、そういうことか」
胸に到来した感情を失くさぬように、大事に心に抱き込んだ。
昔の自分というものは、少しずつでも別の人間で。
それは、少しでも成長しているという証なのだろう。
こんな風に思えるようになった理由はなんだろう。すぐに浮かぶいくつかの顔を思い、穏やかな気持ちになった。
素性の知れぬ自分を、手厚く迎えてくれた人。素性を知ってなお、変わらず接してくれた人。そういう人達を知っているからこそ、素直に、彼らにも感謝出来るのだ。
なにより、父にも似た、兄にも似た、ひとやりならぬ愛情をくれた男(ひと)がいた。
旅に慣れた無骨な手が頭を撫でると、いつも陽だまりの匂いのする男だ。時折唄を紡ぐその声が、彼の付けた自分の名を呼ぶ時、何者でもない只の人間として、此処に在るのだという自信を持つことが出来た。それが、どれほど救いになったか知れない。
彼に早く会いたい。会って、改めて礼が言いたい。
(セル。早く君に会いたい)
そう思った途端、更に涙が溢れてきた。
「で、殿下。どうされたのですか、一体」
「だい、丈夫。なんでもない……大切なことに、今更、気付いただけだ……」
嗚咽でハッキリとは喋られなかったが、うろたえる青年に微笑むことは出来た。未だ両頬を流れ続ける涙の感触を、楽しみながら瞼を閉じる。
ちゃんと伝えなくてはならない。この温かな気持ちを、そのまま届けたい。
「今まで……守ってくれて、ありがとう……」
青年の、息を飲む気配が伝わってくる。僕は笑って、どことなく軽くなった身体を起こした。袖で一頻(ひとしき)り涙を拭くが、眼も頬もヒリヒリと痛い。
まだ不安が残る様子の青年が続いて屈めていた身を起こすと、それを見計らって、なんの前触れもなく、僕は彼へと手を差し出した。
「ここからは一人で行くよ。いつまでも君らに守られてばかりじゃ、いられないから」
青年は、僕の突然の申し出に驚いて固まってしまった。初見から驚かせてばかりで申し訳ないが、もう決めたのだ。
これから、どんなに恐ろしいものと対峙しようとも。
恐れず怯まず、等身大の僕でいる。
「──等身大でいればいい。お前の飢えは、いつかきっと満たされる……俺が保障する」
「自分と、ちゃんと向き合いたいんだ。君達が胸を張って誇れるような人間になりたい」
「それはっ、しかし、殿下は陛下を……っ」
勢いで思わず口走りそうになり、青年は慌てて口を引き結んだ。
陶酔に近い気分を味わう。
(ああ。そんなところまで、気遣ってくれるのか)
守りたいと思った。この国を、愛して止まない。
「隊長に伝えてくれ、心配をかけて申し訳なかったと。君もありがとう。名前を教えて欲しい」
しばし難しい顔をして押し黙っていた青年だが、「恐縮です。」と、一言うと、帽子を外して胸に当てた。そして利き手とおぼしき肉刺(まめ)だらけの手で、まだまだ未熟なこの手を強く握った。頑強な、とても熱い手だ。
「名は、アウラ・ベニアースと申します。殿下、どうぞお気をつけて」
そう告げて、青年は泣きそうな笑顔を浮かべる。
その名の意味は、「風」だった。
2008.01.30 改訂2008.03.31 都樹優戸
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息咳切って駆けてきたものだから、呼吸を落ち着けるのに少年は一苦労した。肺から口内に、鉄錆の味が広がる。
長い長い坂道は、思いのほか登る者の体力を奪った。体を折って呼吸を調える最中、視線だけを動かし、少年は、眼前にそびえ立つ建物を仰いだ。
それは、純白の城だった。
人が手入れ不可能な外壁。風雨にも晒されているだろうに、汚れや傷、蔦一つ巻き付いていない。岩で築かれたであろうのに、表面はのっぺりとしていて、継ぎ目一つ見当たらない。その汚れなき様相のためか、城全体が薄漠と、光を発しているかのようにさえ見える。
神秘を感じさせる、その佇まい。それは、この国の政務の中心。「至上の宝」の封印場所。そして、少年の生まれ育った家だ。
「……」
雲まで届くかと錯覚させられる程に、悠然とそびえる建物を前にして、少年は何も言えなくなった。ただただ仰ぐことしか出来ない。
いつか戻って来るつもりではいた。そんなに長い間、自由にならないことも少年は承知していた。だが、こんなにも早く、再びこの姿を目にするつもりではなかったのだ。蒼穹を背負った美しい白亜の城は、ともすれば威圧感を発しつつ視界一杯に迫ってきそうで、今はとても恐ろしい。
それでも、戻ってこなければならない事情が、少年にはあった。とある人物の力を、借りるために。
不意に笑い出す脚を、少年が叩いて叱咤した、その時。
「誰だっ」
突然、頬を叩くような声がした。はっと少年が視線をやると、赤い制服を着た年若い青年が、豪奢な造りの正門から伸びる、短い坂を下ってきていた。警戒をあらわにした様子で。
よくよく少年が目を凝らせば、見慣れた姿だ。鍔有りの赤い帽子と軍服。つまり、ただの門兵ではない。少年の身辺を警護していた「近衛」、ガレフ隊の一等兵だ。
未熟な願望を叶えるためと言い、身勝手に脱走した少年を、必死に捜してくれている初老の好々爺。毛先の巻いた谷型の銀髭(ぎんし@口ひげ)と、年齢と共に皺を刻んだ顔立ちは、否が応にも人を慕わせる威厳のようなものを感じさせたものだ。
「ッ、その、御髪(おぐし)は。まさか……っ」
近付いた青年が、この白銀の髪を認めて驚愕する。やはり、少年の特徴を熟知しているようだ。隊への伝令役として、城に残っていたのだろう。少年がほっと胸を撫で下ろす。
内心の焦りを胸を掻くことで懸命に抑え、驚き顔のまま硬直してしまっている青年へと、少年は告げた。
「行方不明の王子を捜す必要は、もうない。急ぎ、町の警護にあたるようにと、あなたの隊へ連絡してくれ。町が騒がしくなっている。それから……」
唾液をひとつ嚥下し、少年は青年をじっと見詰める。瞳には剣呑な色とともに、なにか決意のようなものが宿っていた。
それでようやく我を取り戻したらしい青年は、瞬時に顔を引き締めると、黙して次の言葉を待った。
「取り急ぎ、謁見を請う」
胸を掻く力を更に強めて、よく通る明瞭な声で、少年は告げた。
「エラメドル=ファル=ノーデンス竜王陛下。我が、父に」
「彼の殿下のお言葉ならば、喜んで!」
実に快活な返事とともに、青年は槍を地にうがった。背筋を正し、帽子を胸へとあてがう。
見慣れた赤い制服を纏った、茶髪の年若い隊員は、引き締まった精悍な表情で、この無茶な頼みを承諾した。
◆
天井が、やけに高い。
数日振りに訪れた城内の廊下を進みながら、自然、宿のそれと比べていた。やけに新鮮に感じる。城に居る時は、ほとんど部屋から出してもらえなかったからかもしれない。抜け道を利用して給仕の女性に会いに行く以外は、城内の様子はほとんど知らなかった。
白亜の壁と、アーチを描く高い天井。右には火の燈っていない燭台の列。左にはパルテノンを思わせる柱と、眼下に広がる美しい緑、緑の向こうにはアルフトの町一帯が見渡せる。その上に果てなく広がる透明な青。非常に見晴らしの良い景色なのだ、普段ならば。
今はそれが、うっすらと淀んで見えた。アルフトの町の至る所から、煙が立ち昇っていく。
それらを歯噛みして眺め遣りながら、長い廊下を延々と歩いていく。足音が二つ、慌しく響いた。
前を歩くのは、門前で出会った背中だ。伝令は別の者に頼んだようで、先程の青年自ら、僕に付き添ってくれている。向こうは義務感からかもしれないが、正直、有り難かった。
憎んでも憎み切れない、実の父。怒りは止めどなく沸き起こってくるのに、同時にどうしようもなく怖いのだ。先程その名を口にしただけで、胃に冷や水を流し込まれたかのような感覚がしたのを思い出す。
まだまだ自分など、足元にも及ばない。こんな自分が、のこのこと奴の私室を訪れるなんて、どうかしている。蛇のアギトに獲物が進んで飛び込んでいくのと同じだ。
また捕らわれて、閉じ込められるかもしれない。母の二の舞になるかも。
(それでも)
気持ちを落ち着けようと、息をひとつ吸った。
(それでも。やるべきことが、僕にはある)
誰に言われたからでもない。自分でちゃんとわかっていた。逃げ続ける訳にはいかない。
そうしていると、ふと前方から話し掛けられた。
「しかし、ご無事でなによりでした、殿下。もしや人攫いにでも遭遇されたのではと、私ども一同、気が気ではありませんでしたよ。一体今までどちらにいらっしゃったのですか」
少々棘を含んだ声色だった。だがそれは冷たいものではなく、心底心配したのだということを伝えるものだ。ほとほと自分の周りには、保護者が多い。苦笑が浮かぶ。
「すまない。城下のとある宿で、世話になっていたんだ。彼らは僕の素性を知らずに、好意で匿ってくれていた。どうか罰したりしないでほしい」
あまりこういった物言いは好きではないのだが、相手が軍人では仕方がない。彼らは「近衛」であるから、志も高い。かえって忠誠を欠いたと、首でも吊られたら大変だ。
「そんなことは……。私が決められることではありませんし、隊長のことですから手荒なことはしないでしょう」
「だろうね。彼は好い人だ」
彼の好々爺っぷりを思い出して、つい笑みが零れた。そんな僕の様子を感じ取ったのか、青年が徐(おもむろ)に立ち止まり、振り返った。
どうしたのかと首を傾げて青年を見詰めると、彼は、ふっと穏やかな顔をした。
「変わられましたね、殿下。私が隊長から聞かされていた殿下は、引っ込み思案で臆病な御方でした。このように、私のような見知らぬ者と、臆さず話をなさるような方ではありませんでしたよ」
そんなふうに言われて、正直驚いた。目を丸くする。
「いや、それは……」
言葉に詰まる。
それは、周りの人間が近寄って来なかったからで。僕を、人として見てくれなかったからで。そんな視線や態度を敏感に感じ取っては、恐ろしくなってしまっていた。
ガレフ隊とて例外ではなかったように思う。それが、僕自身が原因だったとでも言うのだろうか。
「変わったのは、君達の方じゃないか? 以前はそれこそ、こんな風に話など出来ないような、壁を感じていたんだが」
僕の至極真っ当な意見に、何故か青年のほうがひどく驚いていた。先ほどの僕よろしく、眼を丸くする。
「そんな、滅相も。私たちはみな殿下をお慕い申し上げておりますし、殿下のただでさえ息苦しい生活に少しでも心休まる空間をと、心を砕いてきたつもりです」
思考が一時停止した。
とても変な光景だろう。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、お互い顔を見合わせて固まってしまっているのだから。
「……そんなこと、初めて聞いたよ」
「それは……大仰に、言うべきことではありませんから」
それでは、自分の感じていたあの恐ろしさは、一体なんだったというのだ。母を失い、父を憎んでいた、その心の闇が見せていた幻だったとでもいうのか。
(まぼ、ろし……?)
「── ッ!」
驚愕に、息を飲んだ。口を押えたまま、よろよろと後退し壁に背を預ける。
その考えに行き着いたとき、かつて感じた恐ろしさとは比べ物にならないほどの寒気が、足元から這い登ってきたのを感じた。雨の降りしきる森の中、洞窟で対峙した、あの時のユージーンの言葉が、幻聴のように耳に甦ってくる。
喉を震わせ、瞬きすら忘れた身体が、酷く重くなった気がした。
目眩がする。
「? 殿下、どうかされましたか」
青年の表情に険が宿る。だが彼の呼びかけに、答えている余裕などなかった。重苦しい不協和音が、脳に響いて心を掻き乱していく。
《──竜の血か……。だがそれも、お前自身だ。そして厳密に言ってしまえば、この世に同じものなど何一つ無い。お前が自分と違うと線を引く者達でさえ、皆同じ人間ではない。育った環境も、感情の触れ幅も、観念も……引く血ですら》
《人と違うだなどと思うな。それは所詮、自分から壁を作り避けているだけダ》
「ウルサイ、黙れッ!」
あまりの恐怖に悲鳴を上げた。これ以上聞きたくなかった。
だが耳穴を塞いでも、ユージーンの声は同じことを延々と繰り返し、僕の耳元を舐めるように囁いてくる。
(黙れ。黙れ。黙ってくれ……!)
立っていられず、床に膝を付けた。青年がなにか喚いているが、響く幻聴と耳鳴りで聞き取れない。頭が割れそうに疼く。
《それは所詮、自分から壁を作り避けているだけダ》
悪魔のようなユージーンの声がまた囁く。それがどんどん僕を追い詰めていった。
知りたくなかった、そんな事実。そんな可能性から、眼を背けていたかった。それなのに声は、自分の身に巣食うあさましさを、まざまざと突き付けてくる。
そう、僕は気付いてしまった。
この身に巣食う、卑怯な甘えに。
──僕はこのままずっと、被害者でいたかったのだ。
誰かを憎んでいないと、気が狂いそうだった。
そうなったのは僕の所為ではない。「あいつ」が、僕の眼の前で母をあんなふうに無残に殺しさえしなければ、こんなにも心が醜い闇で満たされることもなかった。城という場所に恐怖を抱き、他の女性にまで母を求めるような、そんな惨めな思いをしなくて済んだ。
自分は、望んでこうなったのではないと思いたかった。そう信じていたかった。なのに事実が、僕の壊れものの心を打ち壊す。
洪水を防いでいた堤防が、勢いよく決壊したのを感じた。その瞬間、耳に響くユージーンの声が、ふっと穏やかなものに変わる。
緊張から解き放たれ、溺れかけたように息を吐き出して手を付いた。力が入らず、そのまま前のめりに蹲(うずくま)る。腕で頭を抱えた状態で、流れ落ちる汗を拭うこともせずに、荒い呼吸を繰り返した。
声は、今はとても穏やかだ。
何故、気付かなかったのだろう。
ユージーンの声は、こんなにも慈愛で満ちていたのに。
これに似た響きを持つ声を、僕は知っている。傷心に染み入る、陽だまりのようにあたたかだ。これこそが、あのとき洞窟で僕に向けられた、ユージーンの本当の声だったのだと知る。そこには僕を責める色など微塵もない。
これで分かった。どんなに眼を背けようとも、結局、そういうことなのだ。
幻だ。
「……、ハァっ、ハァっ、……はは。バカだな、僕は……」
自分が他人に感じている壁など、所詮思い込みによるものが殆どで。それが、自分の眼を曇らせる。与えられている気持ちにも気付かず、ただ不遇を嘆くばかりになるのだ。愚かなことだった。
一方で、必要な壁もあるだろう。僕が青年の誇りを傷つけないようにと、言葉を選んだのも必要な壁だ。だがそれは、今までずっと自分が憎んできた壁と、まったく同じものだった。
(僕は、「王子」だ……。「王子」なんだっ)
それは、動かしようのない事実で。けれどもそれに相応しい、精一杯の誠意を向けてくれていた人達がいた。
なのに、それ以上の扱いを期待して、もがいて泣き喚いて引き篭もって。
──誰かを、自分勝手に憎んだ。
本当に子どもだ。未熟で考えの足りない子どもだ。情けなくて思わず呻いた。
僕の変調に、青年が必死に声を張り上げていた。僕の肩を抱き、虚ろな僕の眼を見て懸命に呼びかけている。彼の顔色は、僕以上に悪かった。もしこれが、昔から変わらない彼らの心根なのだとしたら、とても、申し訳ないことをしてきたと思った。勿体ないことをしてきたとも。気付かずにいた時間を取り戻したい。
不意に、彼の動きが止まったように見えた。先ほどまでの必死さは失せ、顔に戸惑いの色が滲んでいる。
「で、殿下……」
なんだろう。幾分か落ち着いてきた呼吸を繰り返し、視線をかち合わせる。彼は僕の顔を凝視していた。
「殿下……お涙が…………」
(涙?)
そっと目尻に触れてみると、ぴとりと指に吸い付く感触がした。すっと横にずらしてもその感触は変わらない。視線を下にやれば、流れ落ちる涙で床がしとどに濡れていた。
(ああ……。本当だ)
心中そう呟く。先ほどの比喩ではないが、まさに堤防が決壊したかのように、それは目尻から延々と流れ続けていた。
なんのために流れている涙なのか、自分の身体のことなのに分からない。さては自分の愚かしさを呪う涙か。はたまた自分勝手に敵視してきた人達への懺悔の涙か。だが、どちらも違う気がした。
そういえば、先程までとても後悔していたはずなのに、今はなぜか胸がじわりと温かい。
(これは……、あれだ)
嬉しがって、いる。震えるような悦びで、胸がいっぱいになっていた。
戸惑ったが、そう呼ぶ以外に、この感情を説明できる言葉はない。どうしたことだろう。過去から今に繋がる彼らの厚意に、素直に感謝出来る自分が、ここにいる。
それはもう、昔の後ろ向きな自分ではなかった。
「……そうか。これも、そういうことか」
胸に到来した感情を失くさぬように、大事に心に抱き込んだ。
昔の自分というものは、少しずつでも別の人間で。
それは、少しでも成長しているという証なのだろう。
こんな風に思えるようになった理由はなんだろう。すぐに浮かぶいくつかの顔を思い、穏やかな気持ちになった。
素性の知れぬ自分を、手厚く迎えてくれた人。素性を知ってなお、変わらず接してくれた人。そういう人達を知っているからこそ、素直に、彼らにも感謝出来るのだ。
なにより、父にも似た、兄にも似た、ひとやりならぬ愛情をくれた男(ひと)がいた。
旅に慣れた無骨な手が頭を撫でると、いつも陽だまりの匂いのする男だ。時折唄を紡ぐその声が、彼の付けた自分の名を呼ぶ時、何者でもない只の人間として、此処に在るのだという自信を持つことが出来た。それが、どれほど救いになったか知れない。
彼に早く会いたい。会って、改めて礼が言いたい。
(セル。早く君に会いたい)
そう思った途端、更に涙が溢れてきた。
「で、殿下。どうされたのですか、一体」
「だい、丈夫。なんでもない……大切なことに、今更、気付いただけだ……」
嗚咽でハッキリとは喋られなかったが、うろたえる青年に微笑むことは出来た。未だ両頬を流れ続ける涙の感触を、楽しみながら瞼を閉じる。
ちゃんと伝えなくてはならない。この温かな気持ちを、そのまま届けたい。
「今まで……守ってくれて、ありがとう……」
青年の、息を飲む気配が伝わってくる。僕は笑って、どことなく軽くなった身体を起こした。袖で一頻(ひとしき)り涙を拭くが、眼も頬もヒリヒリと痛い。
まだ不安が残る様子の青年が続いて屈めていた身を起こすと、それを見計らって、なんの前触れもなく、僕は彼へと手を差し出した。
「ここからは一人で行くよ。いつまでも君らに守られてばかりじゃ、いられないから」
青年は、僕の突然の申し出に驚いて固まってしまった。初見から驚かせてばかりで申し訳ないが、もう決めたのだ。
これから、どんなに恐ろしいものと対峙しようとも。
恐れず怯まず、等身大の僕でいる。
「──等身大でいればいい。お前の飢えは、いつかきっと満たされる……俺が保障する」
「自分と、ちゃんと向き合いたいんだ。君達が胸を張って誇れるような人間になりたい」
「それはっ、しかし、殿下は陛下を……っ」
勢いで思わず口走りそうになり、青年は慌てて口を引き結んだ。
陶酔に近い気分を味わう。
(ああ。そんなところまで、気遣ってくれるのか)
守りたいと思った。この国を、愛して止まない。
「隊長に伝えてくれ、心配をかけて申し訳なかったと。君もありがとう。名前を教えて欲しい」
しばし難しい顔をして押し黙っていた青年だが、「恐縮です。」と、一言うと、帽子を外して胸に当てた。そして利き手とおぼしき肉刺(まめ)だらけの手で、まだまだ未熟なこの手を強く握った。頑強な、とても熱い手だ。
「名は、アウラ・ベニアースと申します。殿下、どうぞお気をつけて」
そう告げて、青年は泣きそうな笑顔を浮かべる。
その名の意味は、「風」だった。
2008.01.30 改訂2008.03.31 都樹優戸
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