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〔短編〕雨傘の下の万華鏡

順次、サイトに掲載している他の作品もアップしていきたいと思います。
言うほど数もないですが。

「続き」からご覧頂けます。




 『 雨傘の下の万華鏡 』




 夏子は今年で、十一歳になる。小学五年生だ。
 残夏の涼しくなり始めた時期に産まれたから、「夏子」。これがもし、蝉のやかましい、汗もしたたる夏盛りに誕生していたならば、そうは名付けなかったとかつて夏子の両親は言っていた。幼心には解し難い感性を疑問に思ったが、彼らは「それが風流ってなもんだよ。」と、笑って済ませるのみだった。
 夏子はこうみえても吹奏楽部に所属している。市の演奏会や大会にも出場していて、小学生だてらに、なかなか評判は良かった。
 季節は、夏の入り口。もうしばらくで梅雨明けというところだ。夏休みに開催される大会への出場に向けて、練習にも熱が入っていた。
 小学校では珍しいが、夏子の通う学校は特に音楽に力を入れていて、学校創設から少しずつ楽器を買い集めてきたのだという。そのため木管金管問わず年季物が存在するので、そういった楽器は問答無用で四年生の新入部員に宛がわれていた。夏子もようやく今年それから解放されたばかりだ。
 やはり少しでも輝いた楽器を吹きたいと思うのは、人の性である。
 部活が終わり、友達と喋りながら下駄箱へと辿り着く。校舎にはもう部員以外誰も残っておらず、辺りはシンと静まり返っている。
 夏子は普段の騒がしい学校よりも、こういった自分達だけが知っているような、一種の神聖さにどっぷり浸った学校が好きだった。
「あーあ。結局止まなかったね、雨」
 簀(すのこ)に乗って靴を履き変える夏子の横で、誰にともなく千枝がぼやいた。夕方には止むだろうと、自信あり気に告げていたテレビキャスターの予報は、見事に外れた訳だ。
 それでも朝からずっと降り続いていたので、雨具を忘れた者は居ない。こういうのを不幸中の幸いと言うのだろうか。些か的外れのような気もするが。
 だがしかし、
「佳奈子、カサどうしたの?」
 横で雨傘相手に難しい顔をしているのに気付いて、夏子は声をかけた。
「うーん。壊れたみたいぃ、もーうイヤっ」
 そう膨れて喚きながら、佳奈子が開かない雨傘を、無理矢理ガシガシと開閉してみせようとする。
 何をどうして、朝には無事だった雨傘が今になって壊れるのか。でも不意に物が駄目になるというのは、よくある事だ。
 千枝が佳奈子の行動を諌める。
「カナ、危ないからやめなよ。私のカサの中に一緒に入ろ、ね?」
 途端に佳奈子が破願する。お姉さん役の千枝に、佳奈子は殊更なついていた。千枝が開いた雨傘に、嬉々として入る佳奈子に苦笑しながら、三人で校舎を後にした。
 雨の中をとぼとぼ歩く。

  しとしと、しとしと、静かに降る。
  パタパタ、パタタ、ぴんと張られた傘の表面を、雨が叩く。
  どんよりと薄暗い帰り道、黒く変色した道路が物寂しい。
  草花も家々も、色を失って見えるなか。
  前を歩く赤いランドセル二つだけが、妙に色鮮やかだ。

 千枝が雨傘を差し、佳奈子がはしゃぎながらその腕にしがみ付いている。歩きにくそうにしてはいるが、兄弟姉妹の多い千枝にしてみれば慣れたもののようで、満更でもなさそうだ。
 二人だけで盛り上がる会話から、ぽつりと独り取り残されてしまったことへの寂しさに、夏子の胸がきゅっと締まる。天気が良ければ気持ちも明るくなるが、奇しくも今は夕方で、雨だ。
 夏子は、放課後に誰もいなくなった校舎の、あの静謐とした空気は好きだ。雨もそういった要素を孕んではいるが、ある意味、雨傘によって人と隔絶させられるこの感覚を、いまいち好きになり切れない。すっかり二人だけの世界を作ってしまった友人の後を、軽くむくれながら黙々と従いていった。
 と、ふと──視界の隅に、何かが映った。
 驚いて左肩を見遣る。
 そこには、いつの間にそんな所に陣取っていたのだろうか。今まで夏子が眼にしたこともないような、見事な色彩の蝶が一匹、とまっていた。
 夏子が驚きにじっと見詰めているにも関わらず、翅(はね)を悠々と動かしている。まるでそのか弱い呼吸に合わせているかのように、小さく、穏やかに。
「ひゃっ、な、何?!」
 思わず小さく悲鳴を上げてしまった。そのため、先を行く二人が立ち止まり、何事かとこちらを振り返る。
「夏子ちゃん?」
「何なに? どしたの~」
 心配そうな千枝と、怪訝な表情を顕わにした佳奈子とが、蝶を凝視したまま固まってしまった夏子へと歩み寄ってくる。
 そうして、二人して息を飲んだ。その意図は、お互い正反対だったが。
「わっ。綺麗……アゲハ蝶だね」
「ぇえー。やだよ、気持ち悪い」
「どうして? 綺麗じゃない、この宝石みたいな翅とか」
「綺麗じゃないよ、鱗粉まき散らすから嫌いー」
 千枝と佳奈子がやいのやいの言い合っている間も、夏子はひたすら、肩に止まった蝶から眼を離せなかった。
 いつの間に、どうして、選りにも選って自分の肩などで雨宿りしているのか。若干の戸惑いを覚えたものの、その胸には明確に、喜びが満ちていた。
 夏子はこう見えて、動物が好きだ。かつて教室で、担任の先生が授業の一環として、揚羽蝶の幼虫が付いた蜜柑の枝葉を持ってきたことがあった。女子は勿論、男子ですら慄いて近寄らなかったそれらに、夏子だけは興味津々だった。
 他の幼虫は、流石に遠慮したい。だが、あの揚羽の幼虫だけは、見目も可愛らしく、撫でると角を吐いて面白い。それに慣れると幼虫は角を吐かなくなり、心が通じ合ったようにも思えて、更に愛着が沸く。
 以来夏子は、揚羽の虜となっていた。
 母がアレルギー持ちなので、犬も猫も飼えない家庭。だからこそ、動物への愛情は拍車をかける。今も、わざわざ木の葉などの蔭ではなく、夏子の肩の上を選んでくれたことへの感動で、胸が一杯だった。
 それこそ本当に、心が通じ合っているような気がした。この蝶は、夏子にとって特別な蝶なのかもしれなかった。
(だって、こんなに綺麗なんだもの)
 一口に揚羽といえども、様々な種類がいる。そのどれに当て嵌まるのかは、残念ながら夏子には分からなかったが、黒い部分が少なく、色が多い。それに翅が大きい。そんな蝶が……
 傘によって隔絶させられる世界。今度は、この蝶と夏子だけの世界が拡がっている。

  家に連れて帰ろうか。
  いや、やはり自然に帰してやるのが一番だ。
  いやいや。いやいや。いやいや……

 軽い陶酔を味わいながらも、夏子の脳内で、悪魔の囁きにも似た声がぐるぐるぐるぐる反響する。その想像は甘露のように甘く、いつまでも夏子を酔わせてくれるかのように思われた。
 それに、夏子は知っていた。
 今の時期は、まだ揚羽の季節ではない。揚羽が舞うのはもう少し暑くなってからだ。だからこの一匹が夏子から去ろうとも、世界にはこの揚羽の仲間はいない。
 世界に一匹しかいないのだ。どんな壮絶な孤独だろう、それは。
 それならば、ずっと夏子と一緒にいればいい。夏子ならば、この揚羽を独りぼっちにはしない。その、小さく儚い命が尽きるまで、ずっと一緒に──……
 だが、そんな夢心地を打ち壊すかのように、突然夏子のものではない何者かの手が、強引に夏子の肩を払った。
「っ?!」
 あまりのことに、声が出なかった。ただ声帯がひゅっと震えた。
 手に払われたことで、その蝶は一瞬バランスを崩して肩から滑り落ちたが、すぐに翅をはためかせて、雨の降りしきる中を頼りなさ気によろよろと飛び去っていった。
(ああ……ああ可哀想に、雨に濡れちゃう。あんなに弱ってるのに)
 無体な手によって、蝶の脚が服から引き剥がされる感触が、鮮明に残っている。
 呆然と、もう姿形も見失ってしまった蝶の飛び去った空を眺める夏子。あまり嬉しそうではない夏子の様子に、蝶を払った佳奈子が憮然と腰に手を当てる。
「なによ、折角払ってあげたのに。なっちゃんてば変」
 佳奈子の声は、夏子の耳には届かなかった。
 止まってしまった思考を占めるのは、ただただ、あの万華鏡のように美しい、揚羽の身の安全を請う、その願いだけだった。

 雨は、だから夏子を気鬱にさせる。




  2008.03.26  都樹優戸




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